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帝国海軍の象徴 海原に消ゆる(71年目)
2016-04-07 Thu 20:38
71年前の今日
昭和20年4月7日14時23分(14時17分との説も)
当時の日本海軍主力戦艦大和が鹿児島、坊ノ岬沖に沈みました。

海上特攻として沖縄へ向かう途上
延べ380機の米艦載機による攻撃を受け
軍艦大和戦闘詳報には、爆弾3発・魚雷10本が命中したと記録されていますが
実際は更に多くの命中弾が有ったとも言われています。

生き残ったのは269名で、2,740名が艦と運命を共にし
大和を護衛していた第二水雷戦隊(軽巡1隻、駆逐艦8隻)全体では
大和も含め3721名が犠牲となりました。

大和 (2)

僚艦の武蔵がシブヤン海にて沈んだ際には
爆弾・魚雷共に各20発以上を被弾しながら9時間の猛攻に耐えたのに対し
大和が2時間の戦闘で沈んでいるのは、先の対武蔵戦の戦訓を取り入れた米軍が
大和に対し雷撃を左舷に集中した事に起因するとされています。

大和型は雷撃にて浸水が発生した場合、反対側の防水区画に注水する事で
艦の水平を維持する機能を有していましたが、
左舷に雷撃が集中した事で、右舷の注水限度を超えてしまい、
応急処置として右舷機関室に臨時注水するも効果が無く
結果的に推進力と水平を失い死期を早める結果となったのでしょう。

それまでの大和に加え、昨年には海底に眠る武蔵も発見され
その映像が公開されました。

武蔵1

戦後71年を数え、あの戦争を知る人が減ってきている現在だからこそ
今を生きる我々は忘れてはならないのだと想うのです。


今回の動画は二つ
何れも再録ですが、ご容赦下さい。


戦艦 大和




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日本海軍航空隊最後の煌き(第三四三航空隊・剣部隊)
2012-11-10 Sat 17:52
紫電改1

前回の記事にて、ブルーインパルスは源田実の発案で創られたと紹介しましたが、
他にも彼が創設した部隊があります。

先の大戦末期 昭和20年に日本本土防衛のため組織された海軍第三四三航空隊
通称「剣部隊」
上の写真は主力戦闘機「紫電改」





日本近海に米機動部隊の接近を許し
連日国内の主要拠点が攻撃されていた、この時期に
甲飛10期生の新米パイロットが主力ではあったが
可能な限りのベテランパイロットと新鋭機材が集められた。





昭和20年3月19日本土攻撃のため飛来した米艦載機群を迎撃した剣部隊は
57機を撃墜したと報告されたが、実際の米側損失は34機
(純粋に撃墜されたのは14機)だったようである。
剣部隊の未帰還機は13機とされているので、
三四三空だけで見れば互角に戦った事になる。
戦局が圧倒的不利な当時としては見事な成果と言える。

但し日本軍全体では陸海軍合わせて約50機の損害を出しているので、
戦略的には米軍の勝利と言わざるを得ない。

長期的戦略より短期的戦術を重視する日本軍の傾向は、
この頃(戦争末期)になってもあまり変わらなかった様である。

沖縄方面へ出撃する特攻機に対し米軍は強力な戦闘機隊を配備
これを排除し特攻機の進路を確保する為、鹿児島の鹿屋基地に進出
米艦載機群との激烈な戦闘と展開するが、
その後、敵との間合いをとる為 長崎の大村基地に後退する事となる。

三四三空は迎撃を主任務としていたため、敵機の来襲に迅速な対応が求められる。
その為何時どこから、どこに向かって敵が攻撃してくるのか
と言った偵察情報が重要となってくる。
侵攻して来る敵を発見した時に相対距離が近すぎると、迎撃準備を整える間もなく
会敵する事になるので、敵との間合いが必要になる。
必然的に三四三空の基地は戦局の悪化と共に後退していった。


相次ぐ特攻隊の出撃を横目で見ながら正攻法の運用が認められてきた三四三空にも
遂に特攻が下問されるが、志賀淑雄(飛行長)の反対で立ち消えとなる。
以下は志賀淑雄の証言




その後もB29の迎撃に当たり、多大な犠牲を払いながらも終戦まで戦い続けた
三四三空のパイロット達は間違いなく勇士であった。

創設者の源田実が戦争責任で責められるとしても、
彼の下で戦ったパイロット達には感謝を捧げたい…


最後にご覧頂く動画は3月19日に松山上空で行われた防空戦を
見事なCGで描いています。
前・後編に分けて掲載していますので、上から順にご覧下さい。














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史上最大の海戦
2011-10-23 Sun 00:00
今を遡る事67年前の今日
1944年10月23日から25日にかけてフィリピン周辺の海域において
日本海軍とアメリカ海軍が激突史上最大規模の海戦が行われました。

アメリカを中心とした連合軍はキングII作戦によりフィリピンのレイテ島に上陸を開始、
これに対応して日本軍は捷一号作戦を発動、アメリカ軍の進攻阻止が目的でした。

フィリピンがアメリカに奪還されてしまうと、石油などの資源の供給が絶たれ
当時の絶対国防圏が瓦解してしまう事から、必勝を規した日本海軍は
残存するほぼ全ての艦艇を投入し、決戦に挑むが…

先の南太平洋海戦やマリアナ沖海戦によって、空母を中心とした日本の航空戦力は
弱体化しており、強力なアメリカ軍の航空部隊に対抗でき得る戦力は残されていなかった。
日本海軍に残されていたのは、既に海戦の主役を航空機に奪われ、
時代遅れとなった戦艦部隊のみ。

しかし、この戦艦部隊をアメリカの航空部隊と戦わせても、勝てる見込みはなく
その結果日本海軍が採った作戦とは、残った航空部隊を囮として
アメリカ軍航空部隊を誘き寄せ、その隙に主力の戦艦部隊でレイテ島に上陸した
敵陸上部隊を攻撃する…というものであった。

ここに、囮となった航空部隊(小沢艦隊)[小沢中将指揮]が
全滅を覚悟の壮絶な戦いを繰り広げるエンガノ岬沖海戦が生起する。






レイテ3
米艦載機の攻撃により沈没直前の空母瑞鶴


小沢艦隊が決死の囮作戦を闘っていた頃、
主力の戦艦部隊(栗田艦隊)[栗田中将指揮]は、
アメリカ軍航空部隊の波状攻撃により多大な犠牲を出しつつも、
レイテに向けて進撃していた。


レイテ4
シブヤン海海戦において米艦載機の攻撃を受ける戦艦大和
この後、僚艦の武蔵が沈む



栗田艦隊に合流すべく別ルートからレイテを目指した艦隊もあったが、
西村艦隊と志摩艦隊はスリガオ海峡海戦でオルデンドルフ少将の戦艦部隊に敗れている。

レイテ2


そして、栗田艦隊は夜のサンベルナルジノ海峡を通過しサマール島沖に差し掛かったところで
アメリカ軍護衛空母部隊と遭遇する事となる。
通称“タフィ3”と呼ばれる、この部隊は主力部隊ではなく
レイテ島の上陸部隊の護衛を任務としていた。
これを敵の主力部隊と誤認した栗田艦隊は攻撃を開始する。

時に昭和19年(1944年)10月25日午前6時57分、
戦艦大和の主砲46cm砲が唯一敵艦に火を噴いたサマール沖海戦の始まりである。






通常、空母は戦艦の射程距離外から、その艦載機により攻撃するため
戦艦VS空母の戦いは、圧倒的に空母が有利。
しかし戦艦が自身の射程距離内まで空母に肉薄すれば話は別。
この奇跡的な遭遇戦が発生したのは、後にも先にもサマール沖海戦だけである。

日本軍にとっては千載一遇のチャンスであり、戦力的にも圧倒的に有利であった。

対するアメリカ軍にとっては、絶対絶命のピンチ
空母を護衛していたのは駆逐艦部隊だけで、
日本の戦艦部隊は、まともに戦って敵う相手ではない。
この状況下で彼等は果敢に攻撃を仕掛け、空母1隻駆逐艦3隻を失うも、
空母部隊の全滅を防ぎ、戦場からの離脱に成功している。

日本軍も巡洋艦4隻が被害を受け戦線を離脱している。
戦力差や互いの損害を総合的に判断すると、
サマール沖海戦はアメリカ軍の勝利と言って差し支えないだろう。

この戦いの後、栗田長官は何故か反転命令を出し、
作戦目標のレイテ島を目前にして栗田艦隊は戦場を去っている。

唯一勝機に恵まれたサマール沖海戦で勝てなかった日本軍は
その他の海戦(シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦)でも敗北し
フィリピンの制海権を失う事となる。

レイテ沖海戦と総称される、この戦いにおいて日本軍は、
小沢艦隊の囮作戦とは別に、特記すべき作戦を行っている。
爆弾を装備した航空機(主に零戦)をパイロット諸共敵艦に体当たりさせる
いわゆる“特攻”は、この戦いから導入され
終戦まで続けられて、多くの若者が散っていく事になるのである。

レイテ1
特攻機の攻撃により沈みゆく米空母セント・ロー


史上最大の海戦の続きを読む
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あの戦争が終わった日
2011-08-16 Tue 10:27
昨日は66回目の終戦記念日でしたね。

巷では政府首脳陣が靖国神社の参拝を見送って、
その事に石原都知事が激怒して…と、色々騒がしかった様です。

毎年8月6日と15日になると、
太平洋戦争について考えさせられるのですが、
今回は右とか左とか、靖国の是非とか、そういった論点ではなくて
“あの戦争が終わった日”と“沖縄”について思いを馳せてみました。

現在の日本国内では、
8月15日の終戦記念日が“太平洋戦争が終わった日”
との認識が強いですが、海外に目を向けると
必ずしも同じではありません。

主なものを挙げると

1945年8月14日:日本政府がポツダム宣言を受諾した日
同年 8月15日:玉音放送により日本の降伏が国民に知らされた日
同年 9月 2日:日本政府が降伏文書に調印した日
1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約の発効により、
           国際法上、連合国各国と日本の戦争状態が終結した日

世界的には9月2日を“戦争終結の日”と認識している国が多い様です。

ところが、沖縄においては違っていて
6月23日に大規模な戦闘は終わりますが、
その後も日本軍による小規模な抵抗が続き、
完全に戦いが終わったのは9月7日と言われています。

日本本土の盾となり、
住民も巻き込んでの熾烈な戦いが展開された沖縄では
日本が降伏文書に調印した後も戦いが続けられていたのです

当時の海軍沖縄方面司令官大田少将が6月6日に
本土の海軍次官に宛てた電報に当時の惨状が記されています。

『沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、
県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき。

 然れども、本職の知れる範囲に於いては、
県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、
残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、
僅かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、
尚、砲爆撃下風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。

中略

 一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。
沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。

戦後生まれの私ですが、
現在においても米軍の基地が集中し、
日本の安全保障における負担の多くを担っている事を考える時、
上記電文の最後の一節が重く心に響くのです。

昔訪れた、どこまでも蒼い沖縄の海と共に…
沖縄の海1
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106年前の奇跡
2011-05-27 Fri 12:22
日本海海戦6m2

今から106年前の今日、1905年5月27日~翌28日にかけて
日本海海戦が生起した。

日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)
との間で戦われたこの海戦において、物量では圧倒的にロシア側が
勝っていたにも関わらず、日本の完全勝利に終わった結果を
当時の世界各国は奇跡と評した。


日本海海戦5
クリックで拡大します♪

しかし、現在では奇跡とは認識されておらず、
様々な条件が重なった結果の帰結とされている。
多分に結果論と言えなくもないのだが…

勝敗の要因としては、数多挙げられるのですが、
主なものだけでも

ロシア艦隊は33,340キロもの長旅で疲弊していた。
(この移動距離は、当時の世界新記録)

日英同盟により、日本はイギリス及びその同盟国から
 様々な支援を受けた。(逆にロシア艦隊はイギリスの妨害を受けている)

日本海軍は下瀬火薬や三六式無線電信機等、
 当時の最新技術を使用していた。

兵士の連度(訓練の度合)も日本が圧倒的に勝っていた。
 これは、ロシア艦隊が本国から延々日本まで航海している間
 訓練出来なかったのに対し、日本側はロシア側の到着を待ちながら
 充分な訓練が出来た事が有名だが、日本国民の識字率の高さにも起因する。
 当時の日本国民の識字率(文字の読み書きが出来る率)は75%に達していて
 ロシア国民はおろか、欧米をも凌いでいた。
 文字が読めるという事は、複雑な兵器の使い方を伝達するのに効率的だったのである。
 (取り扱い説明書を読ませておけば、基本的な使い方が理解出来た)

気象条件…海戦当日の気象も日本側に味方した。
 日本艦隊が風上に、ロシア艦隊は風下に位置したためと言われている。

他にも挙げれば沢山有るのですが、キリがないので、このくらいにしておきます。
こうして見ると、物量以外は殆どの条件が日本側に有利であり、
勝つべくして勝ったと言えなくもないのです。

しかし、単に幸運であった訳ではなく、物量で圧倒的に不利な日本側が
万策を講じて活路を見出した結果だったのです。

日本以外では対馬海戦と呼ばれる、この戦いの勝利の結果は
長い目で見ると、勝った方の日本には決して良い影響を与えませんでした。
日本海海戦の戦法に拘り続けた結果、時代の流れを見失い、
戦場における戦術では長けていても、更に広範囲を見通す戦略を軽視した結果、
太平洋戦争において補給を無視して場当たり的な戦闘を繰り返す
事になるのです。





日本海海戦をCGで再現しています。



三笠3
当時の日本艦隊の旗艦三笠は、現在も記念艦として横須賀に保存されています。
    
記念艦「三笠」



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